21st CONCERT
「もう一つの季節。徒然に。」
この9月のはじめから、コロナでもインフルエンザでもない39度ばかりの熱がかなり続き、その後もしばらく気怠い時間が過ぎた。その間、心を毟る悲しい別れが続いた。
三善晃先生が夏と秋との間にもうひとつの季節がある、とよく話しておられたが、今年も残酷なもうひとつの季節を耐えねばならなかった。
仲間は有り難い。一昨日(9月22日)、35歳以下でつくる《Youth Choir Aldebaran》と、サン=テグジュペリの、合唱劇「星の王子さま」(ドリアン助川訳、寺嶋陸也台本・曲、立川ひろみ演出)を公演した。休憩を入れて2時間半の大作。だれもがわたしの体力を考えてくれ、本番だけ指揮すればよい状態を作ってくれた。
本番はいい時間が流れる。指揮者は整理と持続だけに集中すればよかった。会場はみんなの発想の宇宙だ。終わると外は強い雨だった。もうひとつの季節はもう秋へと傾いていこうとしていた。
《彩》の演奏会の曲についてのメモ。
「四つの歌」Op17は作品番号でもわかるようにブラームスの青年期の作品。演奏会の開始を告げるホルンから始まりハープが連れ添う。
4楽章「「フィンガル」からの歌」は葬送行進曲。
合唱には言葉や音で変わることのないメッセージを歌い継なぐ使命があると思う。「みるく世がやゆら」は、昨年7月、松本女声アンサンブルA Zが女声版を委嘱初演し、今年7月、東京混声合唱団で混声版を歌っていただいた。
「四つの秋の歌」はやはり歌曲の佇まいを感じる。詩人・高田敏子の優しい視線はどこまでも透明。
4曲目の「枯葉」は「五つの童画」へと繋がっていく。
「想いを秋に寄せて」の小品集は無造作にみえるが、わたしが「彩」と演奏したかった曲を並べた。秋のいちょう並木を通り過ぎた想いを、ですか。
今年の冬は、わたしには格段に寒そうです。
2023年9月24日
自宅書斎にて
20th CONCERT
「我が歌の小史」
歌曲と合唱について考えている。
わたしの歌の歴史は、小学、中学生時代は学校で習う歌、ラジオから流れてきた歌謡曲、浪曲、日本の民謡、放送劇のテーマ曲などを歌うことから始まった。特に、藤山一郎、伊藤久男と広沢虎造は好きだった。浪曲といえば、村の公民館で浪曲の公演があれば、父と聞きに行ったものだ。いまのわたしの声や節回しは浪曲からきている部分が多いかもしれない。
合唱は中学三年生で始めた。女声二パート、男声一パートだったせいかもしれないが、ハーモニーなど考えたことはなく、男声パートを常にメロディーのように歌った。それは、今もそうである。
歌曲らしきものを歌いはじめたのは、急遽、受験で音楽関係の学部に行くことになり、高校三年生の9月から始めたイタリア歌曲の「カーロ・ミオ・ベン」などからであった。歌の先生が伴奏というより、メロディーを右手オクターブで常にフォルテで弾いてくださるので、負けじとデカい声で歌った。
大学時代も、歌曲がイタリアオペラに変わっただけ。ヴェルディのオペラ、オテロの「イアーゴの信条」で卒業し、同じ曲で二期会合唱団に入り、リゴレットの「悪魔め鬼め」で、東京混声合唱団に入った。方向性にブレはなかったのである。
ドイツ歌曲は、まったく縁がなかった。(当時学校では、声があればイタリアもの、声があまりなければドイツもの、という空気があった。わたしの浪曲好きが声の大きさに繋がったのか?)。
一般教養でドイツ語をとったが、興味が湧かず、なんとか「可」をいただく。ドイツ歌曲を歌っていた友人は、マッチの箱の裏に書いたシューベルトの「菩提樹」の歌詞を答案用紙にうつして「優」をもらった。
そのシューベルトの音楽に初めて心が震えたのは、二期会合唱団の定期公演で、元ウィーン少年合唱団の指揮者で武蔵野音楽大学の客員教授だった、フェルディナンド・グロスマン(1887〜1970)の指導、指揮を受けてからである。レッスンは武蔵野音楽大学の授業の始まる前、今は無き合唱階段教室で、朝6時30分からだったが、楽しくて何も苦にならなかった。そして、それはやがて、東京藝術大学の講師時代に出会った、今やTokyoCantatの顔ともいえる、ウィーンの名指揮者、エルヴィン・オルトナーとの出会いに繋がったのは運命だったのか。
「シューベルトを深く尊敬している」と作曲家、寺嶋陸也から聞いたことがある。わたしは彼の合唱作品を合唱歌曲と、かってに呼んでいたので納得であった。
うたの冒険者、赤坂有紀の、うたリサイタルで寺嶋の「道しるべ」を聞き、合唱にしてみたい、と思い作曲者にお願いした。詩も音楽も赤坂にぴったりなので、指揮も頼んだ。
歌曲をまともに知らないわたしが、コロナ禍、リモートで練習をしている「彩」の課題に、シューベルトの「野ばら」を、歌曲を知り尽くしている横尾佳子ヴォイス・トレーナーに、個人中心のレッスンをしていただく提案をした。画面からみんなの苦しみながら、楽しんでいる姿を見て、よし、シューベルトの歌曲を合唱曲に編曲を、と思い立ち、三曲くらい、と寺嶋陸也にさらにお願いした。その結果、どんと七曲がきたのである。どの曲も、確かに合唱歌曲になっていて、すばらしいのではあるが、現在、わたしと「彩」は右往左往のパニック中なのである。
「彩」の本番の日は、桜が見頃、季節は春。だが、世界の心は、やり場の無い怒りと悲しみに凍りついたままだろう。口当たりのいいことばなど無用だが、巡りくれば、その季の花は咲き、鳥は囀り始める。
「彩」のひとりひとりも、歌曲を合せ唱い、合唱曲をひとりひとりの歌曲として歌おう。
「うた」で「きぼう」を彩り、籠に盛り、ただただ、あたりまえの春を願って。
3月17日 宮城、福島など震度6強の地震の翌日。
保谷自宅書斎にて 栗山文昭
19th CONCERT
六月
fantasyとは、空想、幻想、白日夢など心の中だけに存在している想いのようなものを云うのでしょうか。女声合唱も男性から見ればfantasyかもしれません。現実など諸諸に目を向けなければ。
今回の彩はfantasyをテーマに選曲しました。少々無理のある作品もありますがお許しを。
私の大好きな池澤夏樹の詩による「三つの不思議な仕事」には、この世に存在しない、でも存在してほしい三つの仕事を楽しく歌います。私も、空みがき、明日つくり、夢売りを仕事にしたい。ただ、貧乏暇無しでしょうけど。
ちょうど三十年前に、彩の前身である彩の会によって委嘱初演された「ファンタジア」の久しぶりの再演です。団員も入替り、私も馬齢を重ねてきました。少しはfantasyを感じていただける演奏ができますか楽しみです。実は若い売子(うれっこ)の女性作曲家の作品を昨年から練習していたのですが、団員も私も作品と上手(うま)く付合えなく、絶対に信頼のおける「ファンタジア」に急遽切替えたのです。演奏できなかった作品も幻想の彼方へ行ってしまいました。それにしても、やはり大好きな木島 始の訳詩はすばらしい。
平安末期、後白河院の編纂した「梁塵秘抄」には、あの当時の遊女たちなど民衆の天真爛漫な息吹きが伝わってきます。多分、鼓や箏に合わせて歌っていたのでしょう。作曲家柴田南雄はその箏と女声合唱と共演する作品を作りました。「梁塵秘抄」からさまざまな恋の歌を選んでいます。遊女に変身した彩の淑女には時代を超えたfantasyの世界でしょうか。《われを頼めて来ぬ男 角三つ生いたる鬼になれ》
《空を走っているのは私の心です あなたにむかって》。しなやかな若い女性のひたすらな愛。
《そして 最後のかなしみはもう 夢の中にしかない》。去って行ったひとへの、もうすぐ去り行くわたしの「かなしみについて」。二曲の三善 晃の珠玉の小品は私には心の奥の尽きることない波です。
昨年十二月、大中 恩さんは菌血症のため九十四歳で天に召されました。大中さんの指揮で歌ったのは一回だけ、私が東京混声合唱団員だった頃、「島よ」の録音でした。「桐の花」の花言葉は「高尚」。親しみのある多くの作品も「高尚」です。でも指揮はとても庶民的でしたけど。
「六月」は「女の肖像」の中の一曲です。この曲も彩の会の委嘱で「ファンタジア」の一年前(一九八八年)に初演されました。茨木のり子の詩はユートピアを歌っていますがfantasyです。「どこかに ないか」。
宮澤賢治の詩とメロディによる「星めぐりの歌」はfantasyそのものです。ギリシャの昔しから、日本の古代から星座には物語りがありました。かなしみから解きほぐされて、ふるさとの宇宙へ。
私は今年で七十七歳になりました。したがって彩も仲良く歳を取ってきました。でも彩でなければの音はますます熟してきています。
《どこかに美しい人と人との力はないか 同じ時代をともに生きる したたかさとおかしさとそうして怒りが鋭い力となって たちあらわれる》
今日から六月です。
18th CONCERT
味な彩
23年前の1995年に私の心臓を人工心肺に繋いで手術した。
来月、7月28日(土)午後に「九月の風」も演奏会をもつ。
「彩」の今回の3曲は「歌」をテーマにして選曲した。
「にじのソネット」のソネットは叙情詩の一形式だが、
平吉毅州(ひらよしたけくに)の「歌・どこかで」は「彩」
寺嶋陸也は新美南吉の童謡と詩とを八曲の曲集として構成、
23年目の「彩」は、1月、ロッシーニ「スターバト マーテル」。3月、「じゅうにもんめ」はメンデルスゾーン、
現在、団員のほとんどはお孫さん、お舅さん、お姑さん、
音程も身体も地球の引力にダンゼン抵抗し歌い続けてほしい。
17th CONCERT
敷居
今年は信時潔没後50年にあたる。どうしても一曲をと、「紀の国の歌」を選んだ。この曲は1937年(昭和12年)に作られ、同年には「クンスト・デル・フーゲ」とあの「海ゆかば」が世に出ている。この年は盧溝橋事件があり、日華事変が始まった年でもある。
「光る砂漠」は萩原英彦の代表作といってもいいだろう。池内友次郎門下であった萩原の作品を、指揮者故福永陽一郎は「あえて言えば、三善と中田にある音楽性が、萩原の合唱曲の特性であるということである」と書いている。三善は三善晃、池内門下。中田は中田喜直、萩原より10歳上だが、ほぼ同時代の作曲家。
詩人の矢澤宰は私より2歳年下の1944年中国江蘇省生まれ。1952年にようやく復員した父から感染して腎臓結核になり、郷里新潟県の病院で21歳で他界。
信時にしても矢澤にしても、結局先の大戦に運命を操られたのではあるまいか。しかたなかったですまされるのか。
「コワレタイ」「乞われたい」「壊れたい」は女性、特にシュフといわれる人たちの願望、デスカ?
20年前、「彩の会」という合唱団と「つわぶき」「香」を私が勝手に乞い壊してしまった。私は53歳、先天性心房中隔欠損症の手術の年である。私自身は生まれつき壊れていたものをゴアテックスで修繕したのだが。
私の年で半分に分け、上が「九月の風」、下が「彩」として再スタートした。この七月「九月の風」も20周年の演奏会を行った。良かった。今でも心にほっこりと残っている。
彩は20年間で委嘱した曲で一番強烈な作品である「コワレタイ」を選んだ。演奏後、団が壊れそうになった曲でもあるし。
あれから7年、なんとか団も修繕を重ねたが、また壊れること覚悟で挑む。私は「コワレル」こと「コワス」ことが好きなのかな。
本音。けっこう今の彩は気に入っているのです。ですから団員には乞われ続けたいし、壊したくはありません。私の生命も、も少しだから(と言ってしつこく生きたりして)、なんとかコワレナイ、で続けましょう。あ、よく彩は敷居が高い、といわれますが、とっくに敷居など壊れておりますゆえ。
16th CONCERT
美しく生きる
もしこの世の中に、風にゆれる「花」がなかったら、人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。
もしこの世の中に「色」がなかったら、人々の人生観まで変わっていたかもしれない。
もしこの世の中に「信じる」ことがなかったら、、一日として安心してはいられない。
もしこの世の中に「思いやり」がなかったら、淋しくて、とても生きていられない。
もしこの世の中に「小鳥」が歌わなかったら、人は微笑むことを知らなかったかもしれない。
もしこの世の中に「音楽」がなかったら、このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。
もしこの世の中に「詩」がなかったら、人は美しい言葉も知らないままで死んでいく。
もしこの世の中に「愛する心」がなかったら、人間はだれでも孤独です。(「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」より抜粋)
中原淳一(1913~1983)は美少女の挿絵画家として一世を風靡しました。彼の画で育った人はもうかなりの年齢になっているでしょう。昨年が生誕100周年でした。
ふとしたことでこの詩を見つけ、6月なかばの「彩」の演奏会にそれとなく相応しいかな、と思い載せました。彼女たちは「美しく生きている」と日頃から思っていたからです。
今回のプログラムは昨年秋に旅立たれた三善晃の夏の季節を歌った小品からはじまります。「美しいものには理論がある」三善晃のことばです。私たちは演奏に「理論」は聴こえません。美しい音楽が聴こえてくるのです。それは「理論」があまりにも精緻だからです。
次のプログラムは二曲とも寺嶋陸也の作・編曲による民謡です。寺嶋は「民謡を聴くと、声の中に何かがあると感じる。職業歌手の歌にではなく」と言っています。つまり、その声にこそ、気候、風土、生活などの人の営為がそのまま在る、ということでしょう。寺嶋の民謡へ向う姿勢は師である間宮芳生の方向性に近いものがあると思います。
宮崎民謡には日本民謡によるタブロー(tableau)として、沖縄のうたにはスケッチ(sketch)として私たちに呈示してくれています。タブローは絵画に於いて完成作品を指す言葉ですから、振りや演出は必要ありません。またスケッチは素描ですから振りなどが入る余地があるわけです。
「彩」も来年で創団20年になります。この11月1日にはもう一度岩手県の大船渡で「沖縄のスケッチ」を歌う(踊る)予定です。またまた美しく生きる人生が未来につながります。
もしこの世の中に、歌い踊る「彩」がなかったら、私はつまらない合唱指揮者になっていたでしょう。
おわり
15th CONCERT
書いておきたかったこと
合唱連盟の年表によると、1967年(昭和42年)に、連盟創立20周年記念事業のひとつとして「おかあさんコーラス全国大会」が行われている。それから昭和49年まで非公式に継続される。その間、お母さんコーラスという名称が2度変わっている。昭和45年は「第4回家庭婦人コーラス全国大会」となり、東京・関東と大阪の2会場、次の年から東北会場が加わり「第5回ママさんコーラス大会」とまた名称が変わり、この形で昭和49年の第7回大会まで続く。
1975年(昭和50年)、おかあさんコーラスを中心としたコーラスの祭典として、神戸で「全日本合唱祭」が始まり、この大会が事実上、今日まで続く「おかあさんコーラス全国大会」の第1回になる。次の昭和51年には、第2回全日本合唱祭「ママさんコーラス全国大会」となり、次の年に「全日本ママさんコーラス大会」、そして1980年「全日本おかあさんコーラス全国大会」に改称し、ようやく現在の名称に安定する。
作曲家・三善晃は1997年の「合唱界への新しい提言」と題する講演から、以下の言葉を述べられています。
合唱界の第二の問題として「おかあさんコーラスとかシルバーコーラスとか、そういう言い方で合唱団を定義していいのか。確かに自然発生的におかあさんコーラスと言われる方が便利だし、シルバーコーラスと言われるのも出てきています。けれどおかあさんコーラスって何なんだ、音楽的にどういう意味を持っているのかということを問いなおさなければいけないのではないか。」と。
「おかあさんコーラス」は日本だけの文化だ、と高々と言う人がいます。だけど、なぜヨーロッパをはじめ他の世界におかあさんコーラスと呼ぶものはないのか、と不思議に思う人はいないのでしょうか。
私は女声合唱という括りで充分だと思います。「おかあさん」という名称に固執するのは、企業や新聞社などにアピールしやすく、経済効果を期待しているからかもしれません。 高校野球などは、A新聞社が主催に入っていても、B新聞社もC新聞社も報道します。もちろん、テレビなども。しかし、合唱は
どうでしょうか。これも不思議です。「そんなこと、ガタガタ言わないで好きにやったらいいんじゃないの」とおっしゃる方がほとんどでしょうが。
で、いま最高に楽しい合唱団、「女声合唱団彩」について少し。
今回の曲目はかなりハードなものになりました。まず、ア・カペラ曲はエイヤー!「三十五億年のサーカス」は敬愛してやまない、林光のソング。後半2曲は彩自身のための曲。私が勝手に畏友と思っている二人の作曲家の作品。昨年の委嘱曲、寺嶋陸也の武満徹のソング、大河ドラマ「平清盛」と同時代の梁塵秘抄から、新実徳英「遊びをせんとや生まれけむ」など7曲。
ハードなのは私自身のこの文に書いたことを含めて、いっぱいの思いが詰まっているのです。私の思いは、彩のみんなの思いでもある。今日はそのような演奏会。
彩は年々再々歳を重ねはや16年。妻生活も長くなり、災難あるとも、えい!人生塞翁が馬と、昔しの才媛は、他の合唱団との差異があろうがなかろうが、犀のごとく突っ走り、また細心に事を進め、指揮者が練習に来ないものだから催促催促の日々、それでもプログラムはきまらないし、本番までの時間はなくなるし、
えい、賽を投げちゃえ、この際、粉砕覚悟、最悪承知、どうせなら恥を晒してでも「コワレタイ」のように破砕してやるのよとばかり2011年11月25日を迎えるのでした。
一切の裁も債も指揮者自身の采配に掛かっているのです。再拝して謝々。
さて、やっと決まったプログラムはいかがですか。
再演する大好きな「朝顔の苗」、レモンの香りの若き才能・魚路恭子さんの「花、いっぱい」、ロマン派が熟しきって落ちる寸前のマックス・レーガー「五つの二重唱曲」、そして武満徹の珠玉の「Songs」、それに寺嶋陸也さんの魅力あふれる編曲、まさに光彩の曲たちです。
合唱祭で踊りや衣装を競うのもいいでしょうが、このプログラムのような曲を歌うことで彩食兼美になりますよ。 あなたも「彩」の「才」にぜひ。
彩のチラシいかがでしたか。不評好評どちらでも結構。私には、どちらでもない、という答えはつまらない。無念だ。
2008年2月28日。女たちのためのシアターピース「コワレタイー昭和の少女たち」を決行しました。演出の加藤
直との長い時間をかけたワークショップの結果として生まれたものです。紀尾井ホールのステージに、洋服、和服を色形とりどりに着た昭和の少女たちが、アンチックな椅子を小道具に、歌い、しゃべり、動き回りました。台本の加藤直、作曲の寺嶋陸也も私も、3人の男関係者は、ステージの端に小さくなっていただけでした。観客の男性を含め、コワサレたのは男だったのです。(よくある話しですよね)
で今回の演奏会は6月、衣替えの月です。私は個人的にかなり気に入っていた舞台用衣を替え、コワレたからか、体型からか、新しい衣の御披露目となったわけです。つまり今回は、コワレタ後のアフターケアーコンサートと、でも言いましょうか。
演奏する曲はどれも素晴らしいのですが、寺嶋陸也作曲の「朝顔の苗」は、私のふるさと島根県益田市から生まれた秀曲です。
益田には、東京スカイツリーをデザインした、益田市の隣町出身の彫刻家澄川喜一がやはりデザインした石州瓦で作られた島根県芸術センター「グラントワ」があり、そこの館長であった音楽家・山崎篤典の提唱により6年かけて出来た作品です。もとは混声合唱曲でしたが、本日が女声版の全曲初演です。
コワレたって、いつもさわやかな彩に、また新しい魅力が加わりました。
昭和の少女(平成のオバサン)と平成の少女対、昭和の少年(平成のオジサン)という図式はすでに出来上がりつつあり、一触即発の怪しい均衡を保ちながら今日ここに至る。
少女たちの口を吐いて出ることばは昭和の少年の書いたものだ。そのあてがわれたものを少女は自分のことばとして発しなくてはならない。
「私のことばなんかじゃないわ」「いいえ、これは私のことば、これこそ」。ひとりのなかのもうひとりの自分をことばの遠眼鏡で発見した瞬間、少女は相対性原理にしたがい異なるふたつがひとつになり新しい自分の核ができる。その核は少し若い昭和の少年の作った音に 触れ、コワレル。
コワレタイ、コワシテホシイ、コワシテアゲタイ、コワシテヤル、という散弾は、カワイイ少女よ、お母さんです、妻ですわ、どうせオバサンさ、という居直力の強い火薬を装填され、他人というあなた目がけて発射される。その被害の甚大たるや予想すらできない。
当然、あなたの大切なガッショウやら何やらかんやらもコワサレル。
悪夢?でもご安心 みんな「真冬の夜の夢」ですから…と言いつつ、昭和のオジサン、平成のジジイは 笑いながら去っていきました。
シューマン没後150年、今年はシューマンイヤーでもある。彩は一度Op.91を歌ったが苦戦でした。また懲りずOp.69を取り上げたが、やはり苦戦。でもその努力だけは買って下さい。皆さんも一度、お試しあれ。名曲です。
「宇宙と私」。昨年の委嘱曲。詩も曲も私を魅了して止まない。深める、つまり晶子、寺嶋の心象風景に分け入るにはまだまだだ。
松下耕さんに新作を書いて頂いた。他国での悲劇の中に身を置いた日本人女性、山崎佳代子さんの美しい言葉だが重い内容の詩に、作曲家は強く共感し、そのまま一気に書き上げた作品だろう。音の間に作曲家の心がそのまま摺り込まれている。また自身での演奏を無意識に感じさせる。作曲家は、指揮者としても名指揮者であるし。
なにより、松下耕さんに心からの感謝を。
今回のプログラムでは、演奏順に悩んだ。結局、最後に寺嶋さんの小品をアンコールのように置いた。そのためかわいい2曲を書いてくださった。「すいっちょ」「おちば」である。季節もぴったり、珠玉の作品が生まれた。
彩は私の3月のICD(植込み型除細動器)の手術後、10月まで練習らしい練習ができなかった。
しかし、とても健気に待っていてくれた。また人数は少なくなったが、彩の魅力はこれからだ。
日本の女性ならではの彩(いろどり)で歌を染めたい。愛色いっぱいにね。
「彩」は10歳。この世に存在した小さな証は10年続けること。
「彩」は小さい。でも作曲家、演奏家たち、たくさんのともだちがいる。
「彩」は多才。歌うこと以外での才能は素晴らしい。指揮者、ピアニストだって団員なのに。
「彩」は愛妻。活動を支えてくれる家族を愛する妻たちの集まり。例外も…?
私の心臓の手術からすぐ10年。「彩」も多くの人たちが過ぎていった。
でも夢のボールは次々に手渡され、その度に新しい作品が生まれていく。
だから、誕生という喜びと苦しさはいつまで続いていくだろうか。
今日のプログラム後半は、畏友寺嶋陸也さんの新曲と、新しい作品。
彼の知と音楽によって研ぎ澄まされた音と言葉は、尽きることのない泉のような魅力を持っている。
演奏家の資質が問われる。だから、彼は合唱界の寵児とは決してなりえない。そこもまた魅力だ。
「彩」とは時々本気で喧嘩する。現象を捕らえてではなく、本質のところで。
でも、その後の辛さは、次の「彩」のエネルギーに変る。もちろん私も。
「彩」は異彩。だから、ここ、で歌える人たちのために在る。
この宇宙の中から、ここへ集った人たち。宇宙には、かならず仲間がいる。
呼んでみようね、ここ、に来てって。
歌は、心象の映像でもある。詩も充分そうだが、詩が音をまとうことにより、より具象化される。
ルネサンス時代の作品の多くに、音画、という手法が用いられている。音で絵を画くのである。波やさえずる小鳥、あるいは炎などを音符で絵のように画いていく。
また、後のバロック時代には、音楽に言葉の修辞学的要素を取り入れ、言葉はその意味の必要性に応じて音により飾られた。
今回の彩の演奏曲目は、それぞれの作品に絵画や動画を見る楽しみがあるように思える。特に邦人の3作品に。
鈴木作品。私はまず焼場から上る一すじのけむりを見る。まい落ちるすげ笠で風を見,沙羅の花に恋した人の目を見る。ただ絵は動かない。が、心は激しく動く。
三善作品は私の心の中での小さなスクリーンに映り、なつかしさと素直さが心の目のフィルターを外し、子供時代が見える。山口にすぐ近くの島根の西の町の原風景。
遠近となって去り続ける。確かに私はそこに居た。
木下作品。場末の画廊に掛けてある売れそうもない3枚の絵、それを気にもとめない初老の画家、が画かれている一枚の絵。その初老の画家の背中は私の?絵の中に入り、絵のブルーに染まり。
こうして私の言葉で心に映るなにかを表そうとしても不可能。だから詩があり音があり絵がある。
さて彩が「いろどり」なら、シューマンにだって色を付け、4枚の映像を見ていただこう。私は密かに彩は現在(いま)が一番の旬だと思っている。が、シュンはいやだよ。
鈴木輝昭さんに彩として初めて作品をお願いした。この6月半ばから7月初頭にかけて3曲の無伴奏曲をいただいた。芥川龍之介の四行の短詩による相聞歌である。
音取りは移動ドや固定ドを取り交ぜて、できるだけ時間をかけた。彩の団員のほとんどは私と年齢はそう離れてはいない(若い人、すみません)ので、学校教育で受けた移動ド唱法が身に付いている(どっちもだめな人も当然います)。まず転調でつまづく、ころんだまま起き上がれない。次に無調風な箇所ではただ立ちすくむだけ。音取りはなかなか前に進まない。曲が見えてこない。中学生や高校生のように時間とフレッシュで鋭敏な感覚はこれまた当然ない。
彩の面白さは絶望的な場面でも明るさを失わない人たちしかいないこと。涙は笑いといつも一緒にあること。ひとりひとりの力に応じて内なる戦いを止めないことなんだ。
相聞歌は恋の歌だが、芥川の言葉を借りた鈴木輝昭さんの相聞歌でもある。愛に満ちた美しい作品であることは確かだ。まずはその恋のお相手は彩のみんなである。ただ叶わない芥川の恋は沙羅の花のようにむなしく咲き散っていく。
だが彩はむなしく咲かないし散らない。女性はしたたかでなければいけない。彩の花は、いつかはしたたかに咲く。まずは美しくなくても咲く。やがて美しく咲くことを予感させて。
3年かかって全曲歌うバードの「3声のミサ」。田中信昭先生のすばらしい指導を受けた「秋来ぬと」(今回は栗山流ですが)。 イケイケコンビの、彩の大好きな「この世界のぜんぶ」。で、今日の演奏は彩の歌の世界のぜんぶ。 `03.7.12(保谷自宅にて)
沖縄に行きたい。沖縄で歌いたい。「彩」の中から「花ぬ風車」や「この世界のぜんぶ」を練習していると、少しづつではあるが、声が上がっていった。
「彩」は過去、ベルギーへ旅し、楽しいことも多かったが、辛いことも体験し、旅に出ることに私自身は消極的だった。
確かに、未知の場所を訪れるのはわくわくするし心も開放できる。しかし、演奏する、という現実は、より厳しくなる。日頃の東京での演奏以上にプレッシャーを感じ,精神的にも技術的にも自分の今をさらけ出すことになる。相手の人々の期待に答えたい、開放されてはいるが足が地に着かない、観光やおいしい食事、大好きな買い物も演奏の前後にある、など日頃ではない状態にあることは、よほどしっかりしていても、頭では分かっていても、気づかないプレッシャーになる。
私も、年に一、二度外国での演奏会を行っているが、上記の問題はいつも同じである。ただ、やはり力のある者や、ベテランが上手くリードし、最近では東京以上の演奏もできるようになった。むしろ、さらに上の演奏も多い。
しかし、「彩」はまだ「旅」が分っていない。少しでも現地に馴れ、短い練習でも集中して演奏することが大切である。そして、よりお客様と楽しむことを忘れてはいけない。発表ではなく演奏なのだ。
旅にまで来て、こんな固苦しい事を、と思われるかもしれない。私は、いい旅はいい演奏でなければ意味がないと思っている。「彩」のみんながいい旅であってほしい、という願いで書いている。私たちはプレイしに来ただけで遊びに来たのではない。
もちろん、もっと沖縄が好きになり、人々との友情が広く深まってほしいのは、最も大切な願いだが…。
宮城敏さんはじめ、沖縄のみなさん、ありがとうございました。
最近、団員への難しいお願いが多くなってきている。難曲を選びすぎる、という批判も承知しているが、私の夢の表れであることも理解していてほしい。
合唱団のレヴェルに合せて選曲する、これは大切なことだ。私には、レヴェルを低く見た時、すでにその団を心のどこかで差別して見ているように思えてならない。私にとってのレヴェルとは、その人、その団の持つ可能性だと考える。だから、選曲は差別ではなく区別でありたいと願っている。
1995年、私が心臓の手術をした年は人生の大きな転機の年だった。昼間練習をする女声合唱団を私の年齢の上と下とに分けるため、いくつかの合唱団を二つにしてしまった。今はその二つとも自分たちのペースを掴んで素敵に活動をしている。演奏会にも多くの人たちが注目して下さっている。
若い方だった彩も、確実に7歳、年を経たことになる。今年、私と同じ還暦を迎える方もいる。年齢は上がっても二つの団への音楽的なお願いは年ごとに深まっていくし、曲も幅を拡げようと試みている。年をとることは、体だけでなく、心も頭にも大変にやっかいであることは自感し続けている。だが、こと音楽に向かう時は、むしろ表現したい、表現してほしいことが深まってくる。夢も憧れも拡がっていくのだ。
今回の彩の選曲は、私自身がこの曲はこう演奏してみたい、という思いによっている。当然、実力や練習時間が追いついていかないのだが、やってみたい表現を可能な時間、素直に追究してきた。素直になれること、これは年を重ねた人間の大切な特権。
まずやってみて、結果はついてくるものと信じてみようね。彩の諸君。
a
cappll(田中注・ルビ付き「ア・カペッラ」)礼拝堂にの意である。通常、楽器伴奏のない合唱音楽を指す。ただ、歴史的見地から考えると、16世紀音楽は伴奏なしで歌ったと考えられていたが、実際にはオルガンやその他の楽器で合唱声部を重複していたことが多かった。もしかしたら器楽曲も多いバードだったら、ミサ曲も楽器を重ねたかもしれない。当時は現在(田中注・ルビ付き「いま」)の日本の合唱界のような伴奏があるとかないとかのこだわりは当然なかったはずだ。今年の一月、女声、テノール、バスで三声のミサを演奏したが、今回はちょっと無理して女声合唱で演奏する。とにかく、アルトはひくい、すみません。
木とともに人とともに、空、生きる、は昨年6月20日、姉妹合唱団るふらんの女声版委嘱で生まれた。3曲とも混声合唱だったのだが女声合唱で生まれ変わることで、しなやかな浮遊感が生まれ、言葉がより親密に届くようになり、混声とは異なる曲のような感じさえ与える。木とともに、昨年のカウントダウンコンサートで、今年一番初めに歌った曲。空は'97年、松江で詩人谷川俊太郎さんとご一緒した時の曲。生きる、は一昨年9月相次いで他界された掛け替えのない2人の友人と常に共に在る曲。
昨年の彩の委嘱曲、大いなるきょうという日に、の作曲家寺嶋陸也さんとの共動が続いている。晶、ジンガメル、彩そして今年は千葉大学合唱団のための新曲と。彼の曲は無駄な甘えを削ぎ落とし、しかも深い。もっと多くの合唱団に歌ってほしい。コンクールやお母さんコーラス大会など向きではないかもしれないが、音楽に真摯に向き合う合唱団にはぜひ。
今年の委嘱はまだ若い作曲家、瑞慶覧尚子さんに沖縄を題材とする作品をお願いした。作品としての完成度の高さもだが、作曲家として試してみたいことも、演奏は追いつかなくても書き込んでいただけたらとも希った。皆さんにどう届くか楽しみ。思い切り書いてくださったと、私は喜んでいる。
女声合唱団彩の6年目のステージ、それは8割の涙と2割の笑いの重なりから始まる。ここまで生きたって、人は欲と嫉妬のエネルギーが動かしている。それらが本当は美しい素なのかしらん。 '01.6.30
新生「彩」の5年間は、私のあの心臓の手術からの5年間でもあり、私の人生の岐路に立ったままの5年間でもあります。
この6月26日の朝日新聞の夕刊の<自分と出会う>で、俵屋宗達や尾形光琳などの研究家であり、東大の名誉教授でもある山根有三氏の随想が載っておりました。そこには、いままで私が他の人に言ってもわかってもらえないと思い、ほとんど口に出すことのなかった手術体験者の心境が書かれていました。
山根有三氏は現在81歳。病歴、十二指腸潰瘍→手術→輸血→B、C型慢性肝炎、30年間は「生かされている感じ」で通過→肝臓がん→大手術。「問題は、私の精神面である。自分の正直な感じからいうと、手術前の自分と手術後の自分とでは、肉体的にも精神的にも別人だと思う。ひとに会うとまずそれを感じる。なぜか自分でもわからない。元の自分通りに振る舞うにはどうしたらよいのか、それがわからないのである。」
私は、2度目の4時間かけての手術の後から昨年くらいまで、自分の存在を感じることのできない精神状態が続きました。山根氏と同じように、元の自分通りに振る舞うことができないのです。そうした私に見切りをつけて、大切な人もかなりの数、離れていきました。
最近、少しづつですが思い始めているのは、この自分をこのまま受け入れ、新しい私としてつき合う方しかないのではないか、ということです。
「彩」との5年間は、生きることは合唱をすることが当然であった私が、初めて、生きることが自分に出会うための、つまり合唱することで自分に出会うために、まるで霧の中をさまよいながら捜し求めた時間でもありました。山根氏は続けています。「この随想は、手術後に初めて書いたものである。私にとって、生きるとは研究論文を書くことだが、果して論文が書けるのだろうか。そこで、どんな自分に出会うのだろうか。それが目下の悩みであり、楽しみでもある。」
2000年6月28日
松下 耕さんが大学を卒業したばかりだったと思います。青島広志さんとご一緒した新宿のモーツァルトサロンで会ったのが最初。伸びやかなはつらつとした好青年で、ピアノを達者に弾いていました。
西村 朗さんに尚美フラウエンコールのために、童謡・唱歌による「四季の抄」を委嘱したのは1980年。すごい才能との衝撃的な出会い。秋のための「虫のこえ」は、都会の虫は12音で鳴くのだそうで、難しく演奏できませんでした。
新実 徳英さんに委嘱した初めての曲、「五つのメルヒェン」は元は歌曲で、最初に新実さんのピアノで聞いたのは、1984年、田中瑤子先生宅でした。あれから、この「こだま・おとだま」まで何曲になりますか。調べておきました。
三善 晃先生の「三つの抒情」から「ふるさとの夜に寄す」を演奏したのは島根大学の4年生で松江女声合唱団と、1964年でした。あれから何回か演奏してきましたが、今回への想いは特別です。久しぶりに田中瑤子先生とご一緒できる嬉びと緊張で。
私が合唱の指揮活動を続けられるエネルギーはすべて出会いから生じているようです。まず団員と、そして創作者と、作品と、共演者と、聞いて下さる方々との出会いによって。今日のような演奏会は、まさにその出会いの凝縮された形です。長い生きた時間と、係わったすべての人々の思いが一瞬の音の中に込められます。わが「彩」は上手くはありませんが、その密度は高いと思います。どうか、この心が、皆様の心に流れ渡りますように。
99.6.20
一昨年の五月、私は心臓の機能を調べるカテーテル検査のため入院しました。結果は7割ちかい血液が欠損していて、できれば早い手術が必要とのこと。覚悟はしていたものの迷い途惑い眠れない日々が続きました。術後本当に指揮活動に復帰できるのか、あれほど情熱を燃やし続けたコンクールをどうするか、合唱連盟や合唱指揮者協会の役員を続けられるか、手術、その後の私の体、長いブランクを合唱団や団員たちが受け入れてくれるか。しかし、決心しなければなりません。コーロ・カロスがイタリアでのヨーロッパ・グランプリのコンクール、それに続く青い鳥のハンガリー演奏旅行の終わる9月に手術を行う。千葉大、るふらん、OMPの持っていた全国コンクールへのシード権を捨てコンクールからは撤退する。役員任期の終わる12月で指揮者協会、次の3月で合唱連盟の役員を辞める。合唱指揮者としての過去を捨て、もう一人の新しい私を捜す旅を繕った心臓と一緒に始める。
こうして、すべてを捨てる覚悟ができると、心臓を手術することは、私の人生を転換させるため、神の与えた大切な機会なのだ、と素直に受け入れるようになってきました。
あれから、早いもので2年が過ぎて行きました。手術と時を同じくして創団した彩は今回2回目の演奏会、新しくなろうとする私をそのまま受け留めてくれる合唱団になってきました。悩みといえば人が増えないことくらい。日頃の練習も楽しいし、合宿ではよく飲むしジョイント・コンサートやトウキョウカンタートなどにも積極的に参加するし、明るく楽しい力のぬけた、リニューアル栗山のリハビリ合唱団になっています。
今日の演奏会は、私たちの新しい道の一里塚。私の心臓がしっかりと私のものになり鼓動を打つには5年かかると言われています。その頃には、新しい私たちが見付かっているかもしれません。
97.5.20 宇都宮にて